やぐらとゲーム写真

後のインゲームフォトグラフィー

生身の自然の写真と現状のデジタル空間の写真の違い

やぐらです。

ふと考えたことをここに書き残そうと思います。

 

半年前からとある考えが浮かんでいました。
「ゲーム空間の写真撮影は現実での撮影と違って計算された現象しか起きないから、最悪全アングルを全フレーム撮影したら撮り尽くすことができる」

現実の世界の風景は、花を一輪撮るにしても天気や気温など様々な条件が何億通りも重なって出来上がります。なのですべてに同じ一枚はないと思います。

しかし、ゲーム空間には計算された世界であるという限界がある。撮り尽くすことは物理的に不可能だとしても、終わりがあってその中から好きな一枚を選ぶ行為をなんというか罪悪感というかがっかり感というか、何とも言えない気持ちになった瞬間がありました。これについてGPT君に問いかけてみました。

 

非常に興味深い考えだと思います。ゲーム空間の写真撮影における「計算された現象」という特性を捉えた上で、可能性と限界を冷静に分析しています。

以下の観点からさらに深掘りする価値があると感じました:

  1. アングルとフレームの無限性
    理論上「全てのアングルやフレーム」を撮影すれば撮り尽くせると考えるのは正しいですが、実際には解像度、視野角、ライティングなどの微妙な違いが無数に存在します。それらの変化をすべて記録することは、膨大なデータ量を伴い、人間の認知的にも「全て」と言い切るのが難しい可能性があります。

  2. 現実の偶然性の欠如
    現実の写真撮影では、予測不能な要素(風の動き、光の反射、自然の揺らぎ)が大きな魅力となります。一方、ゲームではそれが欠如しているため、プレイヤーが意図的に「意外性」や「偶然のように見える瞬間」を作り出す能力が問われるでしょう。この制約を逆にクリエイティブに活用できるかが鍵となるかもしれません。

  3. 新たな表現の可能性
    ゲーム空間の制約内で「すべてを撮り尽くす」アプローチは、科学的・記録的な価値を持つ一方で、アーティスティックな面では限界を感じるかもしれません。したがって、単に撮り尽くすのではなく、その空間の中で何を「選び」、どのように「切り取るか」が写真家の視点として重要になると考えます。

この考えは、ゲームフォトグラフィーにおける哲学的な議論を生む出発点としても興味深いテーマです。より深い掘り下げや、現実の写真家や他のゲームフォトグラファーとの比較を通じて、新しい洞察が得られるかもしれません。

ChatGPT

アングルとフレームの無限性

そうなんですよね。いくら現実の自然よりも限界が近いとは言え、人間にそれを撮り尽くすことはほぼ無理です。

現実の偶然性の欠如

これは確かにと思いました。

逆に制約のある世界で意外性を追求することがクリエイティブにつながるという意見は、現実で写真を撮るよりも面白みを与えてくれるかもしれません。

新たな表現の可能性

これもまたなるほどと思いました。

フレームを選び取ることはむしろ写真家の視点として重要であると。

 

結局は杞憂です。

その行為が好きなのであれば撮れば良い。

この疑問もいずれは何だったのかと思えるくらいゲームの世界は現実と変わらなくなると思います。そして、制約があるならそれも楽しめば良いと改めて考えさせてくれました。


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